Home
職人File
What's日本の仕事?
あれこれ
Link
職人File
絵馬をつくる
江戸指物をつくる
木箸をつくる
家を建てる
家具をつくる
佃煮をつくる
足袋をつくる
自転車を修理する
豆腐をつくる
花火をつくる
江戸切子ををつくる
三味線をつくる
マンホールの蓋をつくる
かばんをつくる
てぬぐいを染める
 
職人File


番外編 絵馬をつくる
  吉田晁子

本記事は、2003年11月に取材したものです

江戸の頃のまま、変わらぬ絵柄を伝える千住絵馬。
木を薄く削った経木を材料とする独特の風合い。
泥絵の具の鮮やかなオレンジが印象的である。

昭和47年2月5日、突然先代吉田政造氏が亡くなったとき、多くの新聞が「最後の絵馬師死す」と報じた。江戸時代から絵馬を描き続けて7代目、娘ばかり4人を授かった政造氏は、自ら出した句集『千住』のなかでも、たびたび、後を託す男児が欲しいとふと思う心を詠んでいる。

「お父さんも空の上で、まさか今ごろこんなことやってるなんて思っていないでしょ」。私自身も考えていなかったし……、と、絵馬に緑色の絵の具を下ろしながら、8代目となった吉田晁子さんが語った。東京で手描きの絵馬を描き続ける絵馬屋は、もうここ1軒だけ。吉田晁子さんひとりだけである。江戸の頃には日光街道の最初の宿場町として賑わった、千住の旧街道沿いに、今も当時のたたずまいで店を構える絵馬屋。屋号を『絵馬屋』という。

 

200年の昔から受け継ぎ伝える江戸の絵馬

そもそも絵馬は江戸中期からさかんに奉納されるようになり、専門の絵馬師が生まれ始めるが、当初絵馬を描いたのは、多くは提灯屋や傘屋、蒔絵師など、筆を持つ機会のある職人たちだった。これに対し千住の絵馬屋は、もとはといえば上野寛永寺の御用絵師から分かれた絵馬屋、銀座の『貝屋』の系列という。現在8代目、江戸中期頃から絵馬を描き、「もっとも正統派」ともいわれた絵馬屋である。

絵馬といえば木の板で作られたものが多いが、千住絵馬の素材は、木は木でも厚さ1ミリ以下の経木と付木である。「附木絵馬は(中略)主として江戸一円とその周辺に流行したもので、他地方では類例が少ない。このような瀟洒な絵馬は江戸っ子の洒落っ気から生まれたのか、また簡単な附木材ででも絵馬にして奉納しなければ気がすまない心情からか、いずれにしても粋な絵馬である。」(『絵馬』岩井宏実著/法政大学出版局より)
千住絵馬の主である経木絵馬の方は、本体の経木の部分が薄いので、目によっては反ってしまったりもする少々手強い素材。経木に取りつける枠の部分は建具屋に頼んで作ってもらっているが、釘をたてるところからは吉田家の仕事だ。

数の多い絵柄には、墨の部分だけは型紙があるが、大きい絵馬やあまり出ない絵柄は、すべて、型紙なしの手描きである。胡粉(ごふん)を地塗りに使い、天然膠(にかわ)を温め泥絵の具と合わせて乳鉢ですり、同じ色の部分をまとめて何枚か描き、乾いたら次の色を重ねていく……材料も道具も手法もほとんど昔と変わらない。粉を足し、水を足し、にじむようなら膠を足し、かといって膠が多すぎると夏は腐りやすいので控えめに……微妙な調整をしながら描く8代目のそばでしばし静かな時を過ごさせてもらった。

手描きの絵馬屋が東京に一軒となってしまった今、材料の仕入先にも変化が起きてくる。数年前には、長年使ってきた釘が廃番となった。あまりのかわいらしさにため息が出るほど、小さく繊細な釘である。小さな木工品も多かったその昔にはよく使われたのだろうが、今は使われる場所もほとんどないだろうことは想像に難くない。晁子さんがあちらこちら探して、ようやく作ってくれる町工場を見つけた。地元のその工場は、晁子さん曰く「私の宝もの」。泥絵の具も、昔からの仕入先で扱わない色が出てくることがある。そうなればやはり新たな仕入先を探すこととなる。静かに、そして頑なに、昔ながらの材料を守り続けている。

どの工程がむずかしいですかと、聞いてみると、「私には全部むずかしいわ」と、素っ気ないともとれる返事が返ってきた。晁子さんは多くを語らない人である。『め』の字が印象的な千住絵馬がたくさん供えられている千住4丁目の長円寺の奥さまによると「ものすごくまじめな人」なのだそうだ。「そうでなくっちゃ、あんな手仕事は続けられないよ」と町の人は言う。父も、娘に後を託すつもりはなかったし、娘も、自分が跡を継ぐつもりもなかった。ではなぜ、と聞くとやはり彼女は言い放つように「なんとなく」と答えた。

旧街道に東向きに面した、中二階建てのその店は、8代目吉田晁子さんによると少なくとも230~40年は経っているという。ガラスを全面に使ったオープンな店構え、代々仕事場となってきた畳の間、客を迎える上がりかまち、低い天井、指の跡までしみついた作りつけの木製戸棚、黒く艶光りする柱時計……じっくりと時を刻んだゆるやかな風景がこころに染みる家である。東側全面のガラスを通してさし込む自然光と裸電球の光だけが、この仕事場の明かりである。



『際物問屋(きわものどんや)』と彫られた古い木の看板が柱にかけられている。午後になると目をこらさなければこの文字が読みとれないくらい、室内の木の調度品は深くおだやかに、時を経、黒みを帯びている。そしてそれを無理に照らす現代風の明かりはなにもない。際物というのは、必要な季節の間際に売り出すもののことだ。7代目の頃には売り出しのビラや祭りの提灯などの注文も受けて書いていたということである。今は手描きのビラの需要自体、ほとんどないだろうが、8代目の晁子さんの現在の仕事の大部分は、絵馬、そして初午に飾る地口あんどんの絵である。現在描いている絵馬の絵柄は約30種、地口あんどんの絵柄は約160~170種。どちらも父の仕事を受け継いで守られている。

 

1年は10ヶ月 父と過ごした日々のなかで

7代目政造氏が、亡くなる3年半前に集大成した句集『千住』のなかに、当時の仕事風景を垣間見ることができる。
私の仕事は二月の初午が山である。(中略)正月は年末の延長の様にしか思はれない。丁度暮が二ヶ月続くようなものだがそれが過ぎると早くも雛祭の三月であり、私の一年は十ヶ月しかない。それも落ち着かないそ々くさとした毎日である。(後記より)
家族はこの「そ々くさとした毎日」に巻き込まれて育った。千住の絵馬屋の父と娘の話を童話にした絵本『白いきつねの絵馬』のなかにも、こんなくだりがある。手伝いをさせられるようになった晁子さん(絵本の中ではりょうさん)は4年生の冬、傷のある板をもらって、お父さんのまねをしてきつねの絵馬を描く。そして、その白いきつねに毎晩祈るのである。「うちへも お正月を はこんできてちょうだい。」……

晁子さんは一番上だったので、ごく自然に忙しい父を手伝った。型起こしを手伝い、ふち塗りを手伝い、その中に父が色を入れ、筆を動かすのを見てきた。学校から帰れば玄関先で父の姿を見、ごはんのときも、お茶のときもいつもいっしょだった。
その父が亡くなって「お客様はぱたりと減りましたけど、それでも何とか新しいのをあげたい、というお客様がいらしたので、1日2日待ってくださいとお話しして、そのときは母も妹もいましたから、こうかしら、ああかしらと言って仕上げたんです」。するとまた始まったと聞いて、お客様が少しずつ帰ってきてくれた。お客様に押されて続けてきたというのは、一面の真実だろう。しかし「やめる」という選択肢もあったはずである。彼女はどうして続けてきたのか。思い切って聞いてみた。お父さんが好きだったんですか。それとも絵馬が好きだったんですか。晁子さんはこのとき、にこりと笑って答えてくれた。「両方かもしれませんねえ」。

何か特別な思いがあってやっているわけでもないし、勉強しているわけでもないといつも口数の少ない晁子さんだが、父の死後、絵馬と向き合ってもう30年が過ぎた。父のようにガラス戸ごしに仕事姿を見せることもなく、彼女の思いは町の人たちに伝わりにくいけれど、積み重なってきた年月とともに確実に増してきている彼女の愛着が、千住絵馬をこれまで守り抜いてきたのだとfds感じる。そして10年あるいは20年30年経ったころ、次のバトンを受け取る人がいるのかどうか、とても気になるところである。一人きりの息子さんも今は勤め人。そんな話はお互い「聞きもしないし、言いもしない」。しかし、何とか続けてくださるといいですねえ、と思わず口をついて出てしまった私の言葉に、晁子さんは、遠慮がちな笑みを浮かべながら、小さく静かにうなずいた。

 

町に飛び出すきつねたち 農家の稲荷はいまも健在

千住4丁目の長円寺の山門の隣、お地蔵さまのお社の前には、『め』の字が印象的な絵馬がたくさん供えられている。眼病に霊験あらたかで、『目病み地蔵』と人は呼ぶ。長円寺は旧日光街道から少し入ったところにあるが、もともとこの地蔵は旧道沿い、千住の絵馬屋の向かいにあった。向かいの絵馬屋で描き上がったばかりの絵馬を供える旅人も多かっただろう。
絵馬屋に近い長円寺では、この地蔵を含む4カ所に絵馬が見られる。魚籃観音に拝み絵馬、千住七福神のひとつ布袋神に布袋の絵馬、そして稲荷の社にきつねの絵馬。長円寺にきつねの絵馬はひとつだけであるが、周辺をちょっと歩いてみると、いるいる、いるのである。この白いきつねたちが。

長円寺の布袋絵馬は、10年前に『千寿七福神』が始まったとき、長円寺の住職に頼まれて晁子さんが絵柄も考えた。新作だが不思議と千住絵馬らしさを感じさせる。

「お稲荷さんは、動かすたんびに前より高くしなくちゃいけないって言いましてね」。もと油締商を営んだ山田家の庭に祀られたお社(やしろ)は、確かに少し位置が高い。「それから東向きか南向きじゃなきゃいけない」。お稲荷さんにまつわる決まり事や言い伝えは数多い。山田家はそれらを大事にしながら毎日お参りし、今もお社に油揚げが絶えることはない。
足立区椿2丁目の相澤酒店では、千住の絵馬屋から毎年仕入れて売る、初午のきつねの絵馬の数が約50枚と聞いて驚いた。1軒の酒屋の近隣だけで、50のお稲荷さんがあるということだ。「絵馬が出る数は昔とそう変わりません」(相澤喜久男さん)。日本橋から続く旧日光街道は、千住を過ぎると現在の荒川を越える。荒川を越えたあたりは、相澤酒店の周辺も含め、ほんの数十年前までほとんどが田畑だった。「先祖代々農家って方が多いですから、田んぼをやめてもちゃんとお祀りされてますね」。相澤酒店から毎年、8寸という大きめの絵馬を購入する江川家を紹介いただいた。「商売がうまくいかないと、お稲荷さんを粗末にしたせいかなって思うんですよ」と奥さまの浩子さんは肩をすくめる。

 

次世代に引き継がれる絵馬屋のしごと

旧家の江川家に、最近タイから嫁が来た。「次世代に引き継げそうですか」とたずねると「それが問題なの」と浩子さん。しかしよく聞けば、庭のお稲荷さんを眺めていた嫁がある日、義母に問うたという。「お義母さん、神さま、お掃除しないんですか」。で、奥さまはなんと? 「まだまだいいのよって」(笑)……。タイの若者は、今どきの日本人よりよほど信心深い。千住では2003年の祭礼時、晁子さん手描きの地口あんどんが400個、町に飾られた。千住らしいものを探したと仕掛け人たちは言う。絵馬屋のしごとはこれから、新たな一歩を刻みはじめる予感がする。

 

『白いきつねの絵馬』(大川悦生作/太田大八絵/ポプラ社)は、千住の絵馬屋の物語。


 

 PICK UP


1100円~


 SHOP DATA

■絵馬屋
東京都足立区千住4-15-8
TEL 03-3881-4505
9時~17時、不定休



文:舟橋左斗子
写真:柏原文恵

江戸指物をつくる

 

Home | 職人File | What's 日本の仕事? | あれこれ | Link
-- Copyright (C) 2008-2023 nipponnoshigoto.jp. All rights reserved. 写真や文章の無断使用を禁止します--