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毎日々々怒鳴られて、 毎日々々なにくそと湯に向かった
「キューポラのある街」(1962年、日活、主演;吉永小百合)で有名になった埼玉県川口市は鋳物の町。どろりと赤く光る1500度の液体を「湯」と言ってのける男の町である。最盛期500軒を超えた鋳物工場は100軒前後となったけれど、今も大小さまざまな鋳物工場が軒を連ねる。 マンホールの蓋や景観材製造の大手、伊藤鉄工で、小野賢一さん( 29 歳)は造型(鋳型を造る工程)と湯入れを担当する。職人の高齢化にいち早く気づき、若手登用を始めた伊藤鉄工の、高卒採用第2期生、就職 12 年目を迎える若手リーダーである。 川口に生まれ育った小野さんが、鋳物工の道を選んだ理由のひとつは、川口への愛着である。鋳物は江戸の昔から続く川口の伝統だが、年配の人が多く、若い人はやりたがらないと聞いていた。学校時代、勉強が嫌いで好きなのは図工、早くから就職を決めていた小野さん、「じゃ、俺がひとつ」と思い伊藤鉄工の門をたたいた。 しかしこの仕事はきつい。体力的にきついだけでなく、小野さんがついた年配の親方は「教えると自分が損する」渡り職人時代の職人。「見て覚えろ」とろくに教えてもくれない。見た通りやっているつもりでもできなくて、毎日々々怒鳴られて、「毎日々々『なにくそ』と思って」涙を飲んでやっていた。
真面目すぎると言われる小野さん、「今やれと言われてもできません」と笑うが、当時は馬鹿正直に先輩の言いつけを守った。顧問の向井平次さんは、ふたりを見て教えることの難しさを感じたが同時に「こいつ、根性あるな」と思ったと言う。危険と隣り合わせの緊張を強いられる仕事だが、今でも「湯入れが一番おもしろい」と小野さんは言う。 そのときの親方は半年で定年退職し、2ラインある伊藤鉄工の鋳造ラインの片方を、そのときから小野さんが担当している。 面白い話がある。小野さんは勉強が嫌いで入社試験の成績も「ひどかった」というのに向井さんは「小野は能力がある。人以上に勉強熱心」と言うのである。小野さんも、先輩にしごかれた当初の日々を「学校で勉強しているよりずっと興味がもてたし楽しかった」と言い、今では「1番になりたい」という、学校時代には考えもしなかった野心を抱いている。高校の後輩たちが工場見学に来たときには「この会社は世代交代中で、数年で俺たちの時代が来るから入れ」と公言した。そのせいかどうか、同校から 10 年の間に2人の後輩が入社し働いている。鋳造工場部門は、転職組はなかなか定着しないが、新卒中心に 8 人の若手職人と、ベトナム研修生が約 15 人働く、若く活気ある職場である。
寝っ転がってもいい
小野さんが帰る家には妻と3歳の双子、両親や兄弟まで大家族が待っている。休日には子どもたちと、積み木やブロックで遊ぶのが何より楽しい。「ものづくりが好きですから」。家族で出かけて自分が作ったマンホールを見かけると「俺が造ったんだぞ」と自慢している。
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給与:
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伊藤鉄工(株)
文:舟橋左斗子
家庭では、双子の子供が4月から幼稚園に通いだしました。それから、今度、妹が結婚することになりました。仕事のほうは、相変わらず忙しいですね。あの頃は厨房用品でフライパンを鋳造してましたが、今ではそのほかに、日本発の世界に通用する物作りとして、川口商工会議所との共同開発品『 JAPAN ブランド・ KAWAGUCHI i-mono( かわぐちいいもの ) 』の製造・販売を開始しました。また、伊藤鉄工独自開発の厨房用品『 KOMIN( コーミン ) 』これはまだまだ試作段階ですがプロジェクトとして動き出しました。 JAPAN ブランド・ KOMIN ともに、鋳造品は数種類の鍋、及びフライパンです。 (
2008/7/25 小野賢一さんより
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